真実は入口に過ぎず

日々の氣づきを記録していくブログ

無知の知を知り、ブログ名も変更する

ブログタイトルの「真実は一つ」を

「真実は入口に過ぎず」に変更しました。

 

去年、コロナが広まる頃に仕事をやめたのがキッカケで時間ができ、ネットの様々な情報に触れるにつれ、「真実」というものに強く惹かれるようになりました。

(今は自然の中で働いています)

 

陰謀論」と呼ばれたりする情報も、一旦保留にしつつ、追い求めていました。

そして「この情報は凄い、本物だ!」と興奮・感動したものを中心に記事にしていました。

その時の自分は自分で必死だったし、認めてあげたい。

 

ただ、「高慢」になっていたのは事実です。

知った気になって「これは伝えなければ!」とか、ひどい思い込み。

実は、全然「知って」などいなかったのです。

 

そう痛感させてくれたのが、千賀さんであり、澤野大樹さんです。

 

澤野大樹さんの青森講演会を主催されている小野裕美子さんのブログ


こちらのブログ記事は全文読ませていただきましたが、本当に素晴らしいです。

有料にしてもいいくらいの濃い内容が満載です。

 

澤野さんの言葉を引用させていただきます。

 

知識、そして叡智というものは

フラクタルなのです。

知識、そして叡智というものに「到達点」、

つまり「ゴール」というものはありません。

「ゴールに着いた!」

と思ったその場所は、

次の段階、領域への「入り口」なのです。

 

もしあなたが

「私は真実を知った!」

と思ったのであれば、

それはフェイクニュースです。

これは冗談で言っているのではありません。

なぜならば、

あなたはまだ何ひとつ

「知って」などいないからです。

自分の限界、ゴールを

自分で定めてはならないのです。

未熟な自分によって

自分を勝手に規定しちゃダメなのです。

 

無限に広がる叡智の宇宙は、

それこそ無限なのです。

なのに多くの人は

「私は真実を知った」と過信する。

これを高慢といいます。

 

宇宙からすればこうです。

 

「あわわわ、あちゃーっ!

せっかくこれから

無限の叡智を注ぎ込もうとしてたのに、

なんで自分で勝手に

許容量を勝手に制限してしまうのかな?

送り込むことができなくなっちゃったじゃんかよ!!」

ってなります。

 

どうして己を「規定」しようとするのでしょうか?

 

「私」という存在、

「自分」という存在は、

ちょっと聞きかじっただけで到達できる

容易な山だったのですか?

ということです。

 

それは「人」のあらましを

甘く見ることでありますし、

「人」という存在の価値を貶める行為です。

「人は宇宙」、「宇宙とは私」であるならば、

人という存在の価値を貶めるということは、

宇宙の価値を貶めるということと

同義となります。

 

つまり、

「私は真実を知ってしまった」

と思うこととは、

己に対して「呪い」をかけることと等しいのです。

「私は真実を知ってしまった」

と思う華々しい人生の門出が、

じつはなんと

己を呪う儀式となってしまうのです。

 

「人」という存在、

そして、

「私」という存在は、

そんなに生易しいものではないのです。

つまり、私たちは、「我先に」と、

最新情報を貪るようなことをしてはならないのです。

もちろん自由意志というものがありますから、

私はそれを強引に止めることはできません。

私たちはつい

「最新情報」や「裏情報」に飛びつきがちですが、

それよりも前に、まず、

「自己規定の解除」をしなきゃならない。

 

「自分が自分だと思っている自分は

自分じゃない」ということです。

 

すべて「ひとつ」である「ヤハウェ」から

自ずと分かれた存在を

「自分」と言いますから、

そもそも「自分」という呼称自体が

宇宙との決別を意味しているのですけど、

そこまで細かく言ったら

意地悪だと思われてしまいます。

 

「自己規定の解除」

 

この作業を

アラハバキ」と私は呼んでいます。

 

しかし多くの人が

この作業を拒絶します。

みんな「己の無知」を

肯定したくありませんから。

 

こんな単純なことですら

拒絶するのですから、

「新しい世界」

「未来の世界」

「次の価値観」のことなど

わかるはずがありませんよね。

 

アラハバキ」の体験は

まさに苛烈です。

これまでの、今までの人生の

かなりの部分を一度をキャンセルし、

一からやり直し

というレベルでそれはやってきます。

これを受け容れることができますか?

っていう話です。

ほとんどの人がそれを拒否します。

「私はあくまで参考程度なので」とか、

「ちょっとどんなものかと

覗いてみただけなので」と言って、

ほとんどの人が

「見なかったこと」にします。

 

大宇宙の叡智、直観、

イデア、ひらめき、

ずば抜けた独創的な個性、

画期的な開発、

抜きん出た才能というものは、

「私はまだまったく何も知りません」

という、強烈な意思表示の者の下に

もたらされるのです。

 

しかし、ほとんどの人は、

「すべてのことを知りたい」

と決意してスピリチュアルの世界に

足を踏み入れているわけですよね。

 

つまり、動機と結論が

真逆になっているということなのです。

強固なセキュリティが掛けられているのです。

 

「真実を求める者には

できるだけ真実はもたらされないように」

という真逆のセキュリティが掛けられている。

これはヤハウェによる

最大級の「優しさ」なのですけどね。

 

ではどうすれば良いか?

 

これはテクニックも存在しないし

裏技もありません。

素朴であれ、正直であれ、

純粋であれ、素直であれ、

謙虚であれ、冷静であれ、

己を常に俯瞰しておきなさいよ、

ということ、これだけです。

 

あなたがようやく「獲得」したと

思い込んだその「真実」が、

大宇宙を前にしたら

ただの塵に同じであるということを

痛烈に受け容れることが

「スタート」となります。

それは「ゴール」ではありません。

 

つまり「知った」ということには

何の価値もないということです。

いや、何かを知ったと思うことは

大切なことに思えますが、

それはまったくゴールとか

到達点とか悟ったとかでは

決してないということなのです。

あくまで次の領域への「入口」が

垣間見れたという段階です。

 

これ、できますか?

受け容れられますか?

できないでしょう。

 

「カモメのジョナサン」

のような心的領域に至ることは

きわめて困難なことです。

「私はまだ何も知りません」

という「恥ずかしい告白」を、

心の底から純粋に素直に、

宇宙に対して表明すること。

 

これが

「宇宙の無限の叡智」が注がれる

唯一の方法です。

 

どうしてこれまで

一生懸命セミナーに通って、

たくさんの本を読んで

ワークにも参加して

勉強してきたのに、
ここまで到達した私が、

宇宙に対してなんでどうして

「私はまだ何も知りません」なんて

屈辱の表明をしなきゃならないのよ。

そういうのがイヤだから

これまで勉強してきたんじゃない。

って普通はなっちゃうわけですね。

 

「唯一の方法」と言っても

これはテクニックではありません。

宇宙はきちんと見ていますから。

その表明が純粋であるかそうでないかを。

それが純粋であるかそうでないかは、

本人が一番わかっているわけです。

 

私は宇宙なのですから、

そんな宇宙は

テクニックで誤魔化すことはできません。

宇宙がわかっているということは、

じつは本人がわかっているということですから。

 

ではどうすれば良いか?

 

先ほど申し上げましたよね。

「これまでの、今までの

人生のかなりの部分を

一度キャンセルし、

一からやり直す」のです。

この作業を私は

アラハバキ」と言っています。

「アラハバかれる」というのは、

このレベルのことを言っているのですよ。

それは、興味本位とか

趣味の範疇では到達することなどできません。

しかし、

日々のそれぞれ各々の学業や仕事や

人間関係の中において、

この「アラハバキ」の作業が

きちんと行われるようになっている。

それができるように

生活の一番の基礎の部分に

それができるように

「設定」されているのです。

 

もちろんそれは

貧富の差も境遇の差も関係なくです。

だからこそ、人は「平等」なのですよ。

これらは政治的に

主張するものではないのです。

 

これはテクニックではありません。

素直に、純粋に、

正直に、謙虚に、誠実に、

そして何よりも「本音」で生きる事。

そして「私はまだ何も知りません」と

言えるだけの純粋さがあるかどうか。

たったこれだけなのです。

(澤野大樹)

 

(「宇宙の叡智は「無知の知」にしか降りてこない | 宇宙の中心で愛を叫ぶ。」より)

 

痛恨の一撃。

 

私は見事にアラハバかれました。

 

千賀さんもガイアの法則2の8章でも触れているように、

「知った」と興奮している人は簡単にコントロールされやすい。

 

 

ブログを立ち上げてからもうすぐ一年ですが、これを機にブログ名を変更し、

原点に立ち戻ろうと思います。

 

素朴であれ、正直であれ、

純粋であれ、素直であれ、

謙虚であれ、冷静であれ、

己を常に俯瞰しておきなさいよ

 

心に刻もう。

 

星の誕生

(「 A Disk Around a Massive Baby Star」より)